カテゴリ: フォルクローレについて
長文のカブールインタビュー。貴重!
長文のカブールインタビュー。貴重!
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伝説の起源
私は2012年2月19日にラパスでエルネスト・カヴール先生と行ったこのインタビューを共有します。
ドン・エルネスト、子供時代はどうだった?いつから音楽とチャランゴとつながり始めるの?
さて、私は1940年に生まれました、私が地球に来てから72年が経ちました、突然、もうこのように到着しません。私は謙虚でシンプルな家に属し、ラパスの2つの重要な地区にも属しています。私が育ったカランパヤと、現在「グレートパワー」と呼ばれるチジニは、私が青春時代を過ごした場所です。子供の頃から、私はいつも完全に強い趣味と音楽とチャランゴへの愛着を感じてきました。たぶん、私が10歳の時から、私は音楽に執着していて、それと一緒にいるのをやめたりやめたりしていません。私の母は私にチャランギートを買ってくれました、それから私はそれを一日中演奏しました、私は一日中、コードなしで、何もなしで、チンチンチンチンチン、彼女は必死に演奏しました、私の母は、彼女の神経のために、私の最初のチャランギートを「ポンチョに乗せる」まで、はい、まあ。私の父はカラマ出身で、彼はボリビアに住んでいるチリ人で、私の母はボリビア人でした。私の父は姓をカヴールに変えたので、半分フランス語で、もともとはカブールで、カラマのリカンカブール火山のように、私の本当の姓の由来です。ボリビア人もここにそれらの習慣を持っています。なぜなら、例えば、QuispeはQuisbertに、Condesに、Condesに変わるからです。両親は母がとても幼い頃に結婚しました。母は私が14歳の時に私を持っていましたが、彼女は一人で私を育て、私と私の2人の兄弟を一人で教育しました。私は長男で、母(非常に厳格だった)は私に言いました:あなたはどうやってミュージシャンになるつもりですか?あなたは酔っ払って、女たらしになり、口論になるでしょう。音楽はあなたに良い女性を与えるつもりですか?それはあなたに良い友達を与えるつもりですか?それはあなたに仕事を与えるつもりですか?それはあなたにお金を与えるつもりですか?それから、時間が経つのにつれて、私は母に言いました:私はミュージシャンになりたいです、私はあなたに酔っ払ったり喧嘩したりしないことを約束します、そして私は今日までそれを果たしました。
あなたの家族の音楽的背景は何ですか?
私はミュージシャンの家族の出身ではなく、両親も祖父母もミュージシャンではありませんでした。どうやら私は後に兄のルチョに影響を与えたようです。チリにはミュージシャン、チャランギスタであるいとこも何人かいます。ここボリビアでは、家族、祖父、叔父が子供に教える音楽の学習がありますが、私は一日中子供の頃に遊んで一人で学びました。若い頃、私は並外れた妙技で驚くべき方法でチャランゴを演奏することを学びました。
当時のチャランゴとチャランギスタについて、若い頃にどのような参考文献がありましたか?
チャランギートがクエニータ、ギター、コンチェルティーナに同行するオーケストラがありました。彼らは市内の人気のあるフェスティバルのために雇われた近所のオーケストラでした。電気がなく、家には土の床があり、それが私の環境でした。チャランゴは都市の謙虚な人々と田舎のインディアンに属していたので、差別があった理由であり、チャランゴは都市界に眉をひそめられ、彼らはそれがインディアンの道具だと言いました。 チャランギスタに関しては、30年代にはすでにボリビアに注目すべきチャランギスタがいました。フェリペ・リベラは当時多くのアルバムを録音し、彼はソリストではなく、当時はソリストはいませんでしたが、付随するチャランギスタがいました。フェリペ・リベラは典型的なボリビアのオーケストラと共演した。もう一つの偉大な巨匠は、「リラ・インカイカ」グループのアルベルト・ルイス・ラバデンツでした。タラテーニョ・ロハスは、マウロ・ヌニェスのように、ペルーの歌手イマ・スマックと演奏した。これらのミュージシャンは皆、録音するためにアルゼンチンに行き、国際ツアーをしました。彼らは農民ではなく、チャランゴ、ケナ、ボリビア音楽を演奏する都会のミュージシャンでした。彼らは録音するつもりで、面白い音楽だったのでアルゼンチンに滞在しました。アルゼンチンでチャランゴ、ケナ、ザンポニャスも広めた理由だと思います。また、チリで非常に高く評価されたラウル・ショー・モレノに同行したチャランギスタのルイス・オテロもいます。また、1947年にプロとしてプレーし始めたコチャバンビーノ・フリオ・ロカバド、1950年にすでにパリでチャランゴをプレイしていたポトシノ・レアンドロ・ロペス、50年代後半の最も有名なチャランギスタの1人であり、チャランギトを中国とソビエト連邦に連れて行ったコキタとして知られるニコラス・ガルシアにも言及する必要があります。
マウロ・ヌニェスを初めて聞いたのはいつですか?
57くらい、あそこ。直接ではなく、アルバムで聞きました。マウロ・ヌニェスは実際にはソリストではなく、アンサンブルで演奏した。ソリストとして最初のコンサートを行ったのは私です。ソリストとして、大きなステージで、多くの場所で、一人で。
あなたが子供の頃に演奏されたチャランゴの弦の素材と特徴は何でしたか?
ナイロンはまだなく、ワイヤーやチュンチュラ(ガッツ)でできていて、チャランゴではすべて同じで、同じ厚さでした。ナイロンロープは55、57にボリビアに到着しただけで、実際にはひもとして使用された釣り糸でした。当時、私はハープを演奏し、自分のために作ったハープにプラスチックロープが必要だったので、私はそれを覚えています。私がより良い、自然なテンペラであることに気づいたものを釣るまで、チャランゴのための定義された文字列や定義されたテンペラはありませんでした。ナイロンロープを履いたとき、3番目のペアの太いロープをどこに置けばいいのかわからず、上に置くか下に置くか分からなかった。3番目の厚みと薄さで微調整する方法は、チャランゴでアルペギアドを行うことができ、それが私の貢献でした。釣りナイロンは、自分自身を切らずにどれに耐えるかをテストしなければなりませんでした。 私は自分でそれをすべて学びました、今のようなアカデミーはなく、教育方法もありませんでした。
どの時点で、チャランゴがプラスチックロープと3番目のオクターブペアで自然なテンペラで調整されたと定義したのはどのチャランギスタでしたか?
マウロ・ヌニェスはすでにプラスチックで遊んでいた。自然な焼戻しは非常に古いチューニングですが、プラスチック製のストリングに持って行くと、そのように、まあ、それは自発的でした。マウロ・ヌニェス、彼はすでにこのようにプレーしていました、それは本当です、彼は以前にボリビアを離れていたので、彼はペルーとアルゼンチンに住んでいました。
さて、別のトピックに移って、私はあなたが先住民族の文化界、チョロ文化界、チャランゴ・カランペアドールと密接なつながりがあるかどうかを知りたいです。
農民よりもチョロと一緒だ。田舎を旅して、私はいつもチャランゴの遊びを見てきましたし、カランピアンの人たちを見てきました。K'alampearは引っ掛けるという意味で、メロディックな刺し傷です。K'alampeadorの世界は農民から来て、芸術分野のk'alampeadoresはそれをもう少し研究し、彼らはチャランギトからより多くのメロディーを得る方法を知っています。
あなたは、特に楽器のための素晴らしいレパートリーの作成のために、この都市のチャランゴの基本的な軸として認識されています。あなたが開発したこのスタイルについて、このタッチの方法で私に何を伝えることができますか?
さて、私の懸念は、例えば、楽器を宣伝し、自分自身を単数化しようとするアーティストのように自分自身を宣伝することでした。だからこそ、私は、例えば自然を表す音を探してチャランゴを解釈する方法を探しました。チャランゴを演奏することに関しては、私はサーカスであり、それが人々の注意を引いたものです。私は両手でチャランゴに触れ、右または左に触れることができます。私は人々に気の毒に思わせる真剣なチャランギスタになったことがない。私はまた、共通のトピックは、私は学校を持っていないので、それは私に自由に音楽を発明する容易さを与えます。私はまた、専門的にではなく、音楽への愛のために楽器を作りました。
芸術ツアーでボリビアを出発し始めるのはいつですか?
60年代、60年代に、私はすでにプロのバレエダンサーとしてアメリカ中を旅しました。私はボリビア国立バレエ団のメンバーでした、それはクラシックバレエでした、それは民俗的ではありませんでしたが、私たちは国立音楽で全国的なレパートリーも提示しなければなりませんでした。ボリビア当局は、バレエが農民と一緒に旅行しなければならないという考えを持っていたが、それは信じられないほどの影響を引き起こした。農民は遊んだり踊ったりした。彼らはチャランゴを演奏しませんでしたが、タルカ、ケナ、様々な管楽器や打楽器を演奏しました、それは伝統的な音楽、古い習慣でした。
エルネスト・カヴールはどの時点でチャランゴのソリストとして登場しますか?
1965年、私たちがサルタへの最初のツアーでバレエと一緒に行ったとき。ショーでは、彼らはチャランゴだけで私をオープンステージに置き、人々はそれをとても気に入りました。私はダンスよりもチャランゴの方がうまくやっていました。当時、私はココ・アラマヨと名していました。
初めて録音するのはいつですか?
1962年のクエルテト・デ・オロで、それは「大国」地区のグループでした。私たちはメンデスレーベルのために録音し、私はチャランゴとギターを演奏しました。それは私の最初のアルバムでした。私は私にいくつかのhuaynitosを教えてくれた何人かの兄弟とハープを演奏し、その後、立ち上げていた会社だったラジオアメリカは、4つの小さな足、4つの曲を録音するために私たちを招待しましたが、彼らはそれが気に入らず、彼らは私たちを捨てました、私たちは録音しませんでした、それは残念でした、それは素敵な思い出だったでしょう。私が録音した2枚目のアルバムは、フラメンコ音楽を演奏したデクレーマー「エル・トリアネロ」に同行し、私はギターを弾いて同行し、それは1964年か1965年に存在していたに違いない。その後、すでに1966年に「Los Jairas」が登場し、Lauro Recordsのファーストアルバムを録音しました。その後、アルフレド・ドミンゲスと一緒にデュエットとして録音しました。それは、ペーニャ・ナイラでデュオとして多くの即興演奏をしたからです。 1972年にヨーロッパから来たとき、私はチャランゴのソリスト、エルネスト・カヴールとして最初のアルバムを録音しました。私はそこにいるのが好きではなかったので、ヨーロッパから来ました、それは別の世界です、私の世界は違います。多くの人がそこに滞在しましたが、私は逃げました。
チャランゴがボリビア人であるというこの考えについて教えていただけますか?特定の国によるチャランゴの所属についてどう思いますか?
さて、チャランゴはアンデスの楽器ですが、明らかにボリビアとペルーのものです。ペルーでは彼らもそれに触れましたが、彼らは多くを無視しました、あなたがペルーに行くなら、すべてがボリビアです。チリでは何もすることがなく、バイオリン、ギター、その他の楽器でここで起こったように、彼らはそれを採用しました。アルゼンチンではボリビア人から来ています。他の国では、私はエクアドルにチャランゴをもたらした人です。ボリビアは富を維持している国であるため、より重要であることを心に留めておく必要があります。教会のドアにはチャランゴがあり、ポトシはチャランゴの発祥地と見なされなければなりません。
そしてインカスのホルヘミルチベルグまでも鬼籍に…
コンドルは飛んで行くを世界的に流行させた立役者(サイモン&ガーファンクルのレコードはインカスのレコードにサイモンの歌被せたもの)
フォルクローレにCmの美しさをもたらした人
演奏者からすると、どれだけインカスのレコードをコピーしても、あの美しさと切なさが、どうしても達成できない何か聖杯のようなものがある天賦の才能
(ボンボ裏返して叩いてみたり2台にしてみたり、もういろいろやったよ!)
そして日本人のファンからすると南米の人からどのように評価されてるのか不明なミステリアスな人
「アンデス高原のインディオ音楽」(プシガンガが入ってるやつ)と「アンデスの歌まつり」(アナ・アニータが入ってるやつ)の2枚の邦盤だけで、名古屋の学生を大量に泣かせ続けた人(名大フォルクローレ同好会の必修科目
「インカスから始まって、いつの間にかまた定期的にインカスマイブームを起こしてしまう」フォルクローレファンの性
ご冥福を祈ります
そして今回も追悼動画祭とします
インカスは邦題で紹介したい「ボリビアの高笑い」
キーをCmにした 原曲はauqui auqui
そりゃ本場ボリビアの演奏とは違うけど、伝承曲のルーツをいったん置いといて、抒情性に善注力した結果この美しさ ケーナ二重奏のたまらなさ メロディ2つしかないのに Bメロ後半でユニゾンになるとこ泣くマジで「ボリビア〜アンデス高原のインディオ音楽』所収
https://youtu.be/effG0F_rCgc「アナ・アニータ」
これまたCmの美しさ ボンボ何台使ってるんだ ケーナの絡みと加速だけで泣かせるしかもケーナのパッセージがどんどん変化していく チャランゴも素敵 ギターだけが簡単 名大生たぶん全員演奏したことあるのではないかしら「アンデスの歌まつり」またはCDAlegriaに収録
https://youtu.be/mC7bklGsMH4ウルバンバ時代なら「木の馬」
ウルバンバ時代はもう抒情性の極地、録音も良すぎてもはや聴く音楽であって演奏してもたどり着かない…
もし恋人やら友人に最初に「フォルクローレ」のレコードプレゼントするなら、ウルバンバがいいと思う。
https://youtu.be/vlxqgt-z024?t=763そして最後はやはりこれ「コンドルは飛んで行く」
おごそかに始まる2本のケーナ、よく聴くと細かい吹き回しの工夫で、本当にコンドルは飛んで行くかのような。バリトンチャランゴのイントロ、中間ソロやウッドベースみたいに聞こえるソリッドなベースラインを弾くギター、サウンドオブウォールと言ってもいい厚みのある伴奏。そして後半の弾け方、やっぱり数ある「コンドルは飛んでいく」の録音の中でも、これが一番好き
https://youtu.be/ctny_PWpRTg カブール先生追悼、天才の片鱗を知るならこの3曲
カブール追悼企画、全ての音楽ファンに告ぐ、辺境ボリビアにこんなすげえ音楽家がいるのを君は知っているか?
1 canto del viento
カブール先生がいかにボリビアの楽器を愛していたかわかるグレートチューン!この曲、ケーナ以外で演奏しても全く面白くもなんともない!そして題名の秀逸したセンス!風の歌!そうルーチョは、風を自分のケーナに吹き込んでいるだけなのだ!
あとカブール先生の尋常じゃ無い中間の走りっぷり!これぞカブール先生の醍醐味!マジかっこいい!アンサンブル無視!
2 leño verde
これも同じ!サンポーニャじゃなきゃなんにも面白くない!ボリビア的には、東部のカーニバルの音楽にサンポーニャってネイティブな楽器を組み合わせたイノベイター的な名曲!そしてメロディはもはや無い!でもカッコいい!わかる?
https://youtu.be/3tQm23b1uG0
3 cavoureadas
カブール先生が生み出したバイレシートの名人芸の極北!すみませんがカブールの全盛期はこのLPの時だと思ってまして、lucho cavourのソロアルバムなんだけど最強!スピード、パワー、テクニック、音圧!何回勝手に共演したことか!2番のキンバのとこのコードソロ常人じゃないっ!
https://youtu.be/XO_0VV-ng0Q?t=1408
エルネスト・カブール先生追悼その2カブールに訊けなかったこと
【エルネスト・カブール先生追悼その2かその3くらい】
思えば、過去に、カブールの悪口を聞くと、まるで自分の悪口を言われてるかのように腹が立っていたこの私(笑、しかしカブール先生の悪口なんてほぼゼロでしたけど)でした。
自分のヒーローを失うのが、こんな喪失感があるとは思わなかったですよ。思い入れが強すぎたんだな。しかしピート・タウンゼント(ザ・フー)も、ミックジャガーもキースリチャードも、ボブディランも、筒井康隆もまだ生きてるし、永遠に生きてる気がしちゃってたんだよな。嗚呼…
そんなわしの永遠のヒーロー、カブール様に、聞けなかったいくつかの問題を振り返って追悼の2つ目か3つ目にしたい
19歳か20歳のとき、カブールのチャランゴ教本を手に入れて、途中まで進んだんだけど、レッスン4くらいで、いきなり、
「チャカチャカ→それをすごい速く弾く→いきなりカブール先生ばりのかき鳴らし完成」
っていう超無理ゲー(笑)になってて、それマジ無理!
2 絶対に曲を知らないと吹けない教則本問題
カブール先生が教則本に凝ってた時代、ケーナやサンポーニャの教本も
出たんだけど、このわしみたいに音楽の素養が全く無い人でも取り組める、非常にわかりやすい独自の楽譜!楽譜っていうか音階が図解で羅列!本当に助かりましたが、音楽やってる人からすると全くこれまた無理ゲー、小節も無ければ、音符の長さもない。まいったか、曲知らないと吹けないぞヤーイヤーイ!
3 "vol.1"だけ出て以降出ないアルバム問題
4 "y su conjuto""Charango"的なアルバムタイトル多すぎて収拾つかない問題
5 ギターがMario Gutierrezだと、キーが1音高くなるよ問題
Cueca Larga,Ilusion,Danza Aymaraなどなど、全部キーがF#mとかBmで、明らかに声も高い、やっぱりレコーディングで速くしちゃってるんじゃないかと思われます。ケーナの最高音が物理的に無理な音になってるし。(キーAのケーナ使えばいいんだけど、そうじゃない音になってるぞ)
名盤ですが、B面3曲目の"Taquirari Kolla"のドミンゲスのカッコいいコードソロのとこで、必ず針が飛ぶ問題!お知り合いの方なんてこれを克服するために同じLP5枚も持ってたけど全部針が飛ぶそうな…1枚もらいましたので自分としてはラッキー。
それよりなにより、演者の皆さんは自分のレコード自分で聴かないのか?なぜこのまま放置する?(笑)
他にもいっぱいありますが、もう本人に確かめようもない…本当に無念だカブール先生、それにしてもこういう気楽な感じがまた魅力でもありました。次回は自分の好きなカブールの曲ベストテンみたいなの書くかもしれません。